「介護のつぶやき」を当ホームページにて、掲載させていただくことになりました。特集としてシリーズ化していきます。介護の参考にもなります。是非お読みください。
認知症の母と娘
娘の私にはほぼ毎日のように呟く言葉が2つある。
「生きているから大丈夫」
「母といられて幸せ」
つらいな、嫌だな、と思った時いつからか口癖のようになり、自分を鼓舞させる言葉になった。
こんな言葉が私に突き刺さったからかもしれない。
『可哀想ですね』
いい時期を介護で過ごすなんて可哀想、
自分の生活を犠牲にして可哀想、
周りからよく言われる言葉である。
初めて言われた時は情けなくて涙が出た。私が母を介護したくてやっているのに、
よく知りもしないのに自分はそんな惨めに見えるのか寂しくも思えた。自分がやりたいから、自己満足である。
今、母は要介護5、しゃべられなくなって10年近い。2年前には車椅子生活になり、食事もミキサー食になった。意思疎通も難しく大変なことは多い。
子育ては成長して行くから楽しい、
介護は逆なのよ、そう言われた言葉を実感している毎日である。
「お母さんがうつ病かもしれない」
2000年父親から遠方に住む私に電話が入った。そこから私達家族の生活は変わってしまった。「お父さんが倒れたら私の首が締まるから頑張って」母が要介護となり、介護を担ってくれていた父に私がずっと口にしていた言葉である。
父は2010年に他界し、私は母の介護を一手に担うことにした。
周りの施設に預けなさい、と言う声や、
父の残した手紙に逆らい母を介護することを決めた。一番迷惑を被ったのは旦那さんであろうことも承知の上、了承してもらい介護を始めた。
私が介護に携わって思ったことは、
『介護とは担ってみなければ、意味も苦労もわからない』であった。
遠方に住む私は月一回帰省して介護手伝いをしているつもりでいたが、
後々わかったことは私が父親存命の頃していたことは家事手伝いである。
父と母の2人生活にも本当に色々な事があった。
10分たりともじっと座っていらない、
トイレに行く、と言って家から出て行ってしまう、薬を舌の下に隠して飲まずに捨てる、遠方にいた私に父から母がいなくなった、と電話が入ったこともある。
外出先で女子トイレに入ったはずの母が父が気が付かないうちに出ていき、
沢山の人に手伝ってもらい探して見つからず。でも母はちゃんと駐車場の車の前で待っていた。今は笑い話になったけど、
私は母がいなくなり、探す夢を何年にも渡って見続けた。
沢山のことがあったから、少しずつ書いて行ければ嬉しい。
大変な毎日だけど、人に支えてもらって今がある。私もいつか人の支えになりたい。
…つづく
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