ふたりと障がい者の接点とは
—田中さんの甥御さんは脳性まひで肢体に不自由があると伺いました。
田中/今は浜松に年に1回帰省するかどうかという頻度なのですが、浜松に住んでいる甥のことは、もちろん小さな頃から見ています。彼が大人になった時、社会とどうやってコミットしていくのか、それはずっと頭にあります。甥をはじめ、障がいのある方が、その人にしかできないことをする、適材適所の仕組みを作ることができればいいですよね。
鈴木/僕は以前ボランティアで訪問した老人施設で本誌編集部と知り合い、今日の縁に繋がりました。
田中/普段からそういったボランティア活動はされてるんですか?
鈴木/お呼びいただければ、いろいろな施設に伺います。演奏によって、目の前にいる方々に少しでも心和らいでもらえたら、という思いです。
田中/いいですね。音楽の世界では、障がいのある方が仕事に繋がるような、社会と接点を持つようなことはあるのでしょうか?
鈴木/盲目のピアニストの存在を、皆さんも見聞きしたことがあると思います。
田中/聴覚が非常に発達して、素晴らしい音を奏でることができると伺ったことがあります。
鈴木/はい、まさにそうです。また浜松は楽器の街ですが、ヤマハさんが開発した、片手で演奏できる「片手リコーダー」という楽器もあります。このような、楽器からのバックアップもあります。
田中/演奏を通じて社会と接点を持つことができるのですね。
都市の未来を教育で変えていく
田中/以前、いわゆるアウトサイダーアートの作家の作品集を手がけたことがありました。作品集は、その作家の意図していることを理解しながらデザインするものなので、作家と深く対話をします。対話によって、その人にしか繋げられない、作品に続く「道」というものが確かにあると感じました。それは崇高で、アートとしての価値があるものだと思います。このように、美術の世界も、障がいがあっても社会と関わっていける枠組みがあります。
鈴木/障がい者の支援といえば、留学した時のことを思い出しました。当時のフランスでは国の制度としては、身体が不自由な方へのサービスは少なかったように思います。ただ、「困っている人は皆で手伝おう」という考えがとても浸透していました。たとえば地下鉄の階段で、見ず知らずの男性が若い母親のベビーカーを運んであげる光景は何度も目にしました。比べると、日本はシャイというか、他人に手を差し伸べることに恥ずかしさがあるような気がします。知り合って友だちになると、とても親身になってくれるのですが……。
田中/おそらくそれも民度、つまりエデュケーションで変わっていくものではないでしょうか。「友だち」と「他人」という垣根は、教育観点によって変わると思います。2020年のパラリンピックを前に、浜松市が一歩リードして、成熟した街の手本になっていくといいですね。
鈴木/はい、そう思います。
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